■(続)藤田東湖と西郷南洲(4)(本稿は『維新と興亜 』のための草稿です。)
「桜田門外の変」と藤田東湖は、直接の関係はない。しかし、まったく無縁というわけでもない。桜田門外の変の首謀者だった高橋多一郎は、藤田東湖の「教え子 」であり、もっとも優秀な「弟子」であり、おそらく「思想的後継者」の一人だった。その高橋多一郎が、金子孫二郎とともに、水戸藩改革派の中から選抜した若手水戸藩士たちを組織して、薩摩藩の一部と連携の上で、綿密な作戦を練りあげ、実行したのが、後に「桜田門外の変」と言われることになる「井伊直弼暗殺事件」であった。私は、長いこと、この事件の詳細を知らなかった。単なるテロ事件だろうと思っていた。しかし、この事件の実行部隊の主役の一人が、薩摩藩の若いサムライの一人で、井伊直弼の首を取っただけではなく、しかも事件直後、力尽きて、現場で自決していることを知って、俄然、興味を持つようになった。大老井伊直弼を、登城中の籠から引きずり出し、首を切り落とし、その生首を、太刀の先に突き刺し、高くさし上げ、大音声で、「奸賊井伊の首を打ち取ったり・・・」と勝どきを上げたサムライが、有村次左衛門だった。つまり、桜田門外の変は、水戸藩を中心に、薩摩藩と共同作戦の元に実行された暗殺事件だった。
水戸藩と薩摩藩との密約による桜田門外の変の共同作戦は、大きく分けて、二つの作戦から成り立っていた。一つが桜田門外における井伊直弼襲撃であり、もう一つが、3000名の薩摩藩兵が、援護部隊として、挙兵、上京して戦線に加わるというものだった。一つ目の作戦は、実行され、井伊直弼を殺害することによって、ほぼ成功したと言っていいが、もう一つの作戦、つまり3000名の薩摩藩兵の挙兵、上京の方は、未発に終わった。薩摩藩は、どんな理由があったにせよ 、実質的には、「裏切った」のだ。
しかし、薩摩藩も座視していたわけではない。薩摩藩といっても、水戸藩改革派と気脈を通じていたのは、薩摩藩の中の「誠忠派」という西郷や大久保を中心とする若手過激派のグループだった。彼等は、江戸薩摩藩邸詰めの有村治左衛門や有村雄助兄弟、田中謙介、山口三斉、高崎五六・・・等を連絡係として、水戸藩の有志と情報交換し、共同作戦を練り上げていた。