山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 090-6007-0726。 yama31517@yahoo.co.jp

■商業文芸誌の書き手の中心は、何故 、文藝評論家から「ライター」にとって代わられたのか。 いつの頃だろうか、多くの有能な文芸評論家たちが、商業主義文芸誌から消えた。文芸誌は、商業主義を追求するあまり、文学の原点を忘れ 、「売り上げ」が文学の基準になり、結果的に文学は、商業主義を追求するあまり、商業的にも衰退し、文学自体も社会的に地盤沈下し、存在意義を失っていった。つまり、文学の重要な存在根拠だった「文芸評論家」が、文芸誌や文壇から排除され 、追放されることによって、文学は衰退していったと言っていい。何故


■商業文芸誌の書き手の中心は、何故 、文藝評論家から「ライター」にとって代わられたのか。

いつの頃だろうか、多くの有能な文芸評論家たちが、商業主義文芸誌から消えた。文芸誌は、商業主義を追求するあまり、文学の原点を忘れ 、「売り上げ」が文学の基準になり、結果的に文学は、商業主義を追求するあまり、商業的にも衰退し、文学自体も社会的に地盤沈下し、存在意義を失っていった。つまり、文学の重要な存在根拠だった「文芸評論家」が、文芸誌や文壇から排除され 、追放されることによって、文学は衰退していったと言っていい。何故か。ここに、現代日本の文化的貧困化、文化的窮乏化の具体的な見本があると、私は思っている。文芸評論家には、曲がりなりにも「批評」があった。批評とは何か。文学批判や小説批判の能力である。批評的思考力である。しかし、ライターにはそれがない。ライターには、文学や小説を批判したり、批評したり、否定する能力はない。「御用学者」的なゴマすり 、それがライターである。私は、「ライター」という言葉を冷笑的に、侮蔑的に使っている。
たとえば、「武田砂鉄」という「ライター」がいるが、商業文芸誌「文学界」や「すばる」に、コラムを連載している。何故、武田砂鉄のようなライターが、文芸誌に連載を持っているのか、私には不可解だが・・・。その「ライター武田砂鉄」が、「LGBT騒動」について、「水を得た魚」のように積極的に発言している。なるほど、「誰もが否定出来ない」正論である と思う。しかし、こういう小市民的な、人畜無害の「正論すぎる正論」を自信満々に書き続け、掲載することが 、文芸誌の主要な役割で あろうか。私は、「編集者」というサラリーマンが、こういう凡庸な「正論」に傾きがちなことは仕方がないと思う。こういう時のために、「編集者」たちが飼い慣らしておいたのが、自分たちの人畜無害の「エセ正論」を代弁してくれる、いわゆる「御用ライター」なのだろうか。どうもそういう気がする。