■『江藤淳とその時代』~『夏目漱石』論から『小林秀雄』論へ(3)。
わずか22,3歳の大学生だった江藤淳が「三田文学」に発表したデビュー作『夏目漱石』論は、文芸評論、作家論、作品論としては、異例の衝撃をもって文壇に登場した。文芸評論が、大きな話題になることは珍しい。ましてや『夏目漱石』論である。ありふれたテーマであって、余程のことがない限り、世間の耳目を集めることは難しい。何故、江藤淳の『夏目漱石』論は、文壇の話題になったのか。話題になっただけではなく、そのまま、新人批評家=江藤淳は、時代の風雲児となり、一斉を風靡することになる。この問題は、江藤淳を論じる上で、避けて通れない重要問題である。江藤淳は、『夏目漱石』を論じるうえで 、何か新しい思想や新しい方法を、文芸評論の世界に持ち込んだのだろうか。おそらくそうではない。江藤淳が持ち込んだのは、もっと素朴な、誰でもが持っている「批評的感受性」とでも呼ぶべきものだった。私は、ここで、平野謙という、当時の文壇で大きな存在だった文芸評論家の「江藤淳評」(正確には「初版への序」)を思い出す。平野謙という文芸評論家は不思議な人だった。大江健三郎を、最初に見出したのも平野謙だった。その平野謙が、江藤淳の『夏目漱石』論の書籍化にあたって、推薦文を依頼されて書いた最初の「江藤淳論」が「初版への序」である。正直に言うと、私は、この平野謙の「初版への序」という推薦文に深く感動した。
《しかし、手探りで書きだした私の漱石論は難航に難航をかさね、ついに新年号には完成できずに、二月号にまで分載とあいなった。そのあいまに、私はやはり二号にわたって分載された江藤さんの漱石論をぬすみよむような恰好で読了した。よんで私は厭世的になった。まだ筆者が在学中の青年かどうかは知らず、わかわかしい青年の手になった漱石論であることは、一目瞭然であった。しかし、気鋭の青年の手になった漱石論であることによって、私は厭世的になったのではない。その尖鋭な論の独創的なことに、私は厭世的にならざるを得なったのだ。エライ青年が出てきたもんだ、と私は感嘆した。私はあんまりシャクだったので、「よさそうに思ったけど、よんでみたら大したことないね。こりゃ中村光夫のエピゴーネンですよ」というようなすてゼリフとともに、「三田文学」を編集長にかえしたことをおぼえている。》(平野謙「初版への序」)
驚くべき正直な「感想」である。この平野謙の、あまりにも正直すぎる「推薦文」とともに、江藤淳は文壇に登場してきたのである。すでに、文壇の一郭で、それなりの地位を築いている批評家が書いた文章とは思えないような素直な「感想文」であり「推薦文」である。私は、江藤淳の『夏目漱石』論の本文よりも 、この平野謙の「馬鹿正直」と言ってもいい「推薦文」に感動した。