山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■柄谷行人の新作『力と交換様式』について(6) 私は、大学や大学院で哲学を専攻したが、長い間、マルクスという哲学者が嫌いだった。経済学や歴史学が嫌いだったからかもしれない。私が、マルクスに興味を持ちだしたのは、柄谷行人という文芸評論家が、『マルクスその可能性の中心 』を書き出した頃からである。柄谷行人は、『現代思想』という雑誌で、私が尊敬していた唯一の哲学者である廣松渉と対談しているが、そこで、私にとって、とても大事な、且つ本質的なことを言っている。《日本では、哲学は文芸評論にあったのではないか。 西欧

柄谷行人の新作『力と交換様式』について(6)

私は、大学や大学院で哲学を専攻したが、長い間、マルクスという哲学者が嫌いだった。経済学や歴史学が嫌いだったからかもしれない。私が、マルクスに興味を持ちだしたのは、柄谷行人という文芸評論家が、『マルクスその可能性の中心 』を書き出した頃からである。柄谷行人は、『現代思想』という雑誌で、私が尊敬していた唯一の哲学者である廣松渉と対談しているが、そこで、私にとって、とても大事な、且つ本質的なことを言っている。《日本では、哲学は文芸評論にあったのではないか。 西欧で言うところの「 哲学者 」とは、日本では、文芸評論家に当たるのではないか?》と。この対談の冒頭のページを読んで、私の思考のモヤモヤは一挙に晴れた。私は、哲学を勉強しながら、文芸評論に深い関心を持ち、そこから抜け出せないでいたからだ。たとえば、小林秀雄を筆頭に、吉本隆明江藤淳、秋山駿、そして柄谷行人・・・。私は、彼等の文章を、素直に読めた。それぞれ内容は異なるが、彼等が、必死で、《 物を考えている 》らしいことに、私は、深く感動していた。とりわけ、新人の文芸評論家として登場してきた柄谷行人の文章には、決定的とも言うべき影響を受けた。そこには
《 哲学と文学》、あるいは《 哲学と批評 》の見事な調和、融合があった。不遜にも、《 これなら、私にも書けるかもしれない》と思い、書き始めたのが『 小林秀雄ベルグソン』だった。当時、休刊中だった『 三田文学』が復刊され、作家の高橋昌男さんが新編集長ということで、書き手を探しているようだったので、『 小林秀雄ベルグソン』の論考を読んでもらった。高橋昌男編集長のアドバイスもあり、何回か書き直して、慶應義塾大学入学直後からの私の憧れだった『 三田文学』に発表することが出来たのだった。そこで、思いがけない、不思議なことが起こった。柄谷行人が、私の『三田文学』掲載の原稿を読んでくれていることがわかったのだ。しかも褒めていたのだ。それを教えてくれたのは、当時、『 群像』新人賞を受賞して、文壇デビューしたばかりの文芸評論家=井口時男さんだった。何かのパーティか勉強会かの流れで、二次会か三次会を経るうちに二人だけになり、明け方の新宿歌舞伎町の貧乏居酒屋で、井口時男さんが、ふと、もらしたのだ。《 山崎さんの名前が、柄谷行人の『 思潮』に出てるよ 》と。『思潮』は、柄谷行人浅田彰が編集する思想雑誌だったが、私は、薄っぺらな理屈屋にすぎない浅田彰という人物が嫌いだったので、その『 思潮』という雑誌は、よく読んでなかった。井口さんから話を聞いて 、すぐに私はその雑誌を買い求めた。そこの座談会で、柄谷行人が、突然、私の名前を出して、わずか二、三行だが、褒めている。