山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。 後期水戸学派を代表する思想家の一人が会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)であり、彼の主著が『新論』である。『新論』は、幕末の尊皇攘夷派の志士たちのバイブルであったらしい。つまり、幕末の志士たちは、会沢正志斎の『新論』を読んで、尊皇攘夷思想で理論武装していたらしい。なるほど、そうだろうなあ、と思う。ここには、水戸学派の思想の精髄が詰め込まれているといっていい。たとえば 、『新論』には「国体論」とか「神国」とかいう目新しい言葉も登場する。言葉(言語)は重要

■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。

後期水戸学派を代表する思想家の一人が会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)であり、彼の主著が『新論』である。『新論』は、幕末の尊皇攘夷派の志士たちのバイブルであったらしい。つまり、幕末の志士たちは、会沢正志斎の『新論』を読んで、尊皇攘夷思想で理論武装していたらしい。なるほど、そうだろうなあ、と思う。ここには、水戸学派の思想の精髄が詰め込まれているといっていい。たとえば 、『新論』には「国体論」とか「神国」とかいう目新しい言葉も登場する。言葉(言語)は重要である。名は体を表す、からだ。命懸けで革命運動に参加するには、頑強な肉体だけではなく、新しい思想も必要だ。「そのために生き、そのために命をかけてもいいというイデー」(キルケゴール)としての新しい革命思想が。幕末の尊皇攘夷派の志士たちにとって、その「新しい革命思想」の役割を果たしたのが、水戸学派の尊皇攘夷思想であり、とりわけ、会沢正志斉の『新論』であったのだろう。その意味で、会沢正志斉の『新論』は、水戸学派の原典の一つに当たるものだと言っていいだろう。思想活動や言論活動には「原典」を読むことは必須だ。入門書や解説書、啓蒙書・・・などの、その思想や哲学の周辺の第二次資料や第三次資料を読みあさることによって、表層的理解は得られるだろうが、その思想や哲学の精髄は理解できない。原典には原典にしかない「何か」がある。それは、入門書や解説書、啓蒙書・・・などには決定的に欠如している「何か」だ。それを、西田幾多郎は「ガイスト」と読んだ。水戸学派には、はかの近代的な歴史学や歴史研究にはない、いわゆる歴史学を超えた「ガイスト」がある、と。私は、激しく西田幾多郎に同意する。
さて、会沢正志斎について、私が理解できないことが、一つ、ある。それは、会沢正志斎が、藤田東湖らとともに、産み育てたはずの水戸学派の改革派の政治行動と、「戊午の密勅」をめぐって、袂を分かったことである。

■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。(2)

会沢正志斎は、藤田東湖と並んで、後期水戸学派を代表する思想家である。しかし、藤田東湖亡き後の会沢正志斎の思想行動には、われわれ
凡人には理解できないような謎めいたももがある。水戸学派の改革派、ないしは急進派とは、異なる行動をとるからである。晩年の会沢正志斎は、水戸藩存続を第一義として、幕府側の顔色を伺いながら 、水戸学派の精髄であった「尊皇攘夷」思想の抑制・隠蔽へ向かうように見える。「尊皇攘夷」の思想的オピニオン・リーダーたる会沢正志斎の真意はどこにあったのだろうか。私は、まだ、この問題に関する関連資料類を、じゅうぶんに持ち合わせていない。だから、軽々に判断することは差し控えるが、それにしても 疑問が残る。会沢正志斎は、立て続けに繰り返される幕府側の強権発動を前に、萎縮し、転向したのか。一方には、会沢正志斎を「師」と仰ぐ高橋多一郎や金子孫一郎ら、水戸学派急進派がいた。高橋多一郎や金子孫一郎らは、幕府側と妥協し、穏健派となっていた会沢正志斎と、「戊午の密勅」返還騒動で対立し、やがて分裂して、「桜田門外の変」という直接行動へ突き進む。高橋多一郎や金子孫一郎らの直接行動「桜田門外の変」をどう評価するかは、なかなか難しい問題であろう。少なくとも、水戸学派の重鎮・会沢正志斎が、「桜田門外の変」を支持していなかったことは、事実だろう。重要な事実である。しかも、「老耄」と批判されながも、その一方では、「尊皇攘夷」を否定するかのように「開国論」を主張し、幕府にそれを提出する始末であった。天才のすることは、分からない。しかし、そこに、「ガイスト」はあるのだ。

■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。(3)

尊王攘夷論」の書『新論』の著者である会沢正志斎は、晩年に、「尊王論」も「攘夷論」も捨て、転向したかのように見える。私も、長いこと、そう思っていた。しかし、もうひとつの考え方がありうる 、と私は考えるようになった。思想的な「転向」とは、イデオロギー中心に、ものを考える時に起こる現象である。存在論的に考える人によって、「転向」はありえない。会沢正志斎の『新論』を、「尊王攘夷論」の書として読み、深く影響を受けていた人たちにとっては、会沢正志斎の「戊午の密勅」返還騒動での思想的言動や、あるいは「桜田門外の変」の首謀者=高橋多一郎等との激しい論争や対立・抗争は、「転向」にしか見えなかったとしても、会沢正志斎自身にとっては「転向」でもなんでもなかったのかもしれない。自らの存在論的思考を実践しただけであったのかもしれない。会沢正志斎の思想的言動には、迷いがなく、断固たる決意のようなものが感じられるからだ。独創的な一流の思想家の思考は、常に動いている。躍動している。一箇所にとどまってはいない。一箇所にとどまるとき、思想は「イデオロギー化」し、「概念化」する。思想の「論理的一貫性」なるものも 、考え方によっては、思考停止でしかない場合もある。人間存在は、「論理的一貫性」のために生きているわけでもない。場合によっては、「論理的一貫性」など 、机上の空論に過ぎない時だってあるだろう。



■会沢正志斎の『新論』を読みながら、私が考えたこと。(4)



会沢正志斎は、晩年に「開国論」を主張している。「攘夷論」から「開国論」へ。会沢正志斎に何が起きたのだろうか。小林秀雄は、芸術家は「直接経験」の世界に生きていると言っている。「論理的一貫性」などそれほど重要ではない、ということだろう。「君子豹変す」という言葉がある。普通は、あまりいい意味ではつかわれない。これは、中国の古典『易経』にある言葉で、原義は違う。原義は、むしろいい意味で使われている。つまり、「君子は豹変しなければならない」と。これは 、状況の変化、時代の流れ・・・などの変化や変動に、特定のイデオロギーや思想に凝り固まることなく、柔軟に対応せよ、ぐらいの意味だろうか。小林秀雄の言う「直接経験」の世界は、変化や変動の避けがたい世界である。会沢正志斎の場合 、どういう状況だったかは、明確には分からない。単なる変節や裏切りだったのか、それとも、大きな時代の変化や変動を読み込んだ上の「実存的決断」だったのか。確かに言えることは、会沢正志斎の決断と決意が、かまり強固なものであり、断固たるものだったことだことだ。会沢正志斎は、この時 、「直接経験」の世界にいたのである。それが、正解だったか、間違いだったかは問題でない。それが、「実存的決断」だったことは間違いない。言うまでもなく、会沢正志斎は、激しい批判や対立を覚悟の上で、「戊午の密勅」の朝廷への返還を主張し、「桜田門外の変」の決起には反対したのだった。つまり、「論理的一貫性」という合理主義的判断より「直接経験」の命じる判断にしたがったのである。