私は石原莞爾を、さまざまな意味で、高く評価するものであるが、しかし、あまりにも手放しの石原莞爾絶賛論には共感できない。その種の石原莞爾絶賛論の多くは、東條英機との対比から起こっているように見えるが、私は、その判断と評価の仕方には反対である。東條英機を《 悪役 》と見立てて 、石原莞爾をその対極に位置ずける歴史の見方では、単純・素朴な石原莞爾絶賛論に行き着かざるをえないだろう。それでは石原莞爾の実像に迫ることは無理だろう。たとえば私は、戦後の反戦平和主義、あるいは戦後民主主義的な思想的観点を根拠にすると思われる《 平和主義者・石原莞爾 》というような評価にも反対である。石原莞爾は、陸軍将校として満洲事変を引き起こした張本人であり、まさに戦争の当事者である。私は、《 善玉 》としての石原莞爾に興味がない。むしろ私は、《 戦争犯罪者 》としての石原莞爾に興味がある。最近、石原莞爾という名前が、《 安全パイ 》として扱われることに不満である。最近、ある凡庸な歴史家が、《 私が評価する三大日本人 》の一人として、石原莞爾の名前をあげている記事を読んで、すっかり石原莞爾が嫌いになった。たとえば、私は、小林秀雄が好きで、昔から、要するに、文学に目覚めた高校生の時から読み続けている。そして思想的影響も受け続けてているが、他人たちが、気軽に小林秀雄の名前を出すのに接すると、途端に嫌になる。しばらく小林秀雄のことを、考えるのも読むのも、名前を口に出すのも、嫌になる。そういう時は、私の師匠は、みんなが大嫌いな《 江藤淳 》である、と言うことにしているが、その江藤淳を再評価するという人たちが出てくると、これまた、嫌になる。私が考える《私の小林秀雄 》も、《 私の江藤淳 》も、そして《私の石原莞爾 》も、お前らの考えるものとは、まったく違うのだ、と思う。