山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

⬛️王道アジア主義の哲学的基礎〜石原莞爾論〜 坪内隆彦氏の新著『木村武雄の日中国交正常化』《望楠書房》という本を読んでいるうちに、いろいろ、思いつくことがあったので、思いつくままに、感想を記しておきたい。《 日中国交正常化》は、田中角栄内閣の時代に実現したとおもっていたが・・・。その裏で、日中を股にかけて飛び回り、《 日中国交正常化 》に向けて精力的に動いていた男がいた。それが木村武雄だった。木村武雄は、戦前から、石原莞爾の薫陶を受けた筋金入りの《アジア主義者》だった。では、その《アジア主義》とは何か。

⬛️王道アジア主義の哲学的基礎〜石原莞爾論〜

坪内隆彦氏の新著『木村武雄の日中国交正常化』《望楠書房》という本を読んでいるうちに、いろいろ、思いつくことがあったので、思いつくままに、感想を記しておきたい。《 日中国交正常化》は、田中角栄内閣の時代に実現したとおもっていたが・・・。その裏で、日中を股にかけて飛び回り、《 日中国交正常化 》に向けて精力的に動いていた男がいた。それが木村武雄だった。木村武雄は、戦前から、石原莞爾の薫陶を受けた筋金入りの《アジア主義者》だった。では、その《アジア主義》とは何か。正確に言うと、《 王道アジア主義 》とは何か。木村武雄は 、山形県米沢市に生まれ、明治大学を出た後、故郷に帰り、農民救済運動を土台に、地方政治家として出発する。当時、東北地方の農村は不況のどん底tにあえいでいた。有名な《娘たちの身売り》が頻発していたのもこの頃だった。坪内隆彦は、こう書いている。

昭和8年(1933) 年末から一年間で、芸妓 、娼妓、酌婦、女給になった農家の娘たちの数は、東北六県で一万六千余名に達したという。ーー食う米もなく、夜逃げや娘の身売りを強いられている農民を救わなければならない。そのためには、農民自身が立ち上がり、声を上げなければならない。自分は農民の先頭に立って戦う。木村は、そう決意した。》(坪内隆彦)

木村武雄の農民運動の原点はここにあった。たが、それに、限界を感じたのか、木村武雄は、同じく山形県出身の軍人・石原莞爾を訪ね、 この郷土の大先輩の薫陶を受け、大きな思想的影響を受けることになる。木村武雄の《 王道アジア主義 》は、石原莞爾の《王道アジア主義 》を受け継ぐものであり、木村武雄の《王道アジア主義 》を知るには、石原莞爾を知る必要がる。石原莞爾と言えば、多くの人が知っているように、名著『世界最終戦論』(または『 最終戦争論』)の著者である。軍人ではあったか、ただの軍人ではない。軍人でありながら、歴史的名著を残すぐらいだから、一種の《 思想家 》であり《 哲学者 》でもあったというべきだろう。石原莞爾は、また田中智学の《国柱会》のメンバーでもあり、《日蓮宗》の熱心な信者でもあった。近代合理主義的な知識人、思想家ではなく、合理主義を超越した反合理主義的な、宗教的な資質と感受性を持つ知識人であり、思想家だった。ここが、並の軍人や知識人、学者、思想家と、決定的に違うところだ。我々は、石原莞爾の思想や哲学が、単なる欧米近代思想の受け売りでも、その理論の寄せ集めでもなかったことを、知っておく必要がある。石原莞爾は、自分の知性と感受性に思考の土台を置いた、文字通りオリジナルな思想家であり哲学者だったのだ。では、石原莞爾の《思考の土台》とは何だったのか。その一つが、日蓮宗 、つまり法華経信仰であった。坪内隆彦は、こう書いている。

《しかし、石原は教育総監部のあり方に疑問を持ち、満たされないものを感じていた。こうした中で、彼は大正八(1919)年に田中智学の所説にひかれ、日蓮主義の思想団体「国柱会 」に入会する。石原は、法華経信仰に至る心情を次のように振り返っている。》(坪内隆彦)

次は、石原莞爾自身の文章である。坪内隆彦の著書から孫引きする。

《(六十五連隊時代の)猛訓練によって養われて来たものは兵に対する敬愛の情であり、心を悩ますものはこの一身を真に君国に捧げている神の如き兵に、いかにしてその精神の原動力たるべき国体に関する信仰 、感激をたたきこむかにあった。……遂に私は日蓮上人に到達して真の安心を得、大正八年漢口に赴任前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮上人の『前代未聞の大闘じょうの一閻浮堤に起こるべし』は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。》(石原莞爾『』)

石原莞爾「軍事研究」の背後には《日蓮宗》、特に田中智学の《国柱会》の信仰があった。「兵 」にたたきこむべき精神の原動力は、何処にあるのか。それは、知識や理論ではない。知識や理論では「兵 」は、動かない、ということであろう。そこで、石原莞爾が到達したのが、《国柱会 》であり、《法華経》であった、ということであろう。つまり、石原莞爾の『 世界最終戦論』のアイデアも、宗教的信仰から得たものであり、《王道アジア主義 》という思想も 、そこに起源を持っている、と言っていい。ところで、《国柱会 》というと、その熱狂的な、あるいは狂信的とも言うべき、もう一人の信者が思い出される。《 宮澤賢治》である。童話作家、詩人として有名な宮澤賢治である。時代も重複している。石原莞爾宮澤賢治。この二人を魅了した《国柱会》とは何か。