山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■岳真也と私と三田文学。 岳真也と私は、慶應義塾大学の同級生である。入学も卒業も大学院も。しかし、学生時代は面識は、まったくなかった。私が、岳真也に出会ったのは卒業後である。私が、新宿区山吹町にあった岳真也の事務所兼自宅マンションを訪ねていったのである。そこは新潮社の横か前か裏か分からないが、いづれにしろ新潮社の近くだった。岳真也は、その頃『蒼い共和国』という派手な同人雑誌をやっていた。私は、その『編集後記』を見て、当時、行き場をなくしていた私は、《一縷の望み》をかけて岳真也の事務所を訪ねたのであった。

岳真也と私と三田文学

岳真也と私は、慶應義塾大学の同級生である。入学も卒業も大学院も。しかし、学生時代は面識は、まったくなかった。私が、岳真也に出会ったのは卒業後である。私が、新宿区山吹町にあった岳真也の事務所兼自宅マンションを訪ねていったのである。そこは新潮社の横か前か裏か分からないが、いづれにしろ新潮社の近くだった。岳真也は、その頃『蒼い共和国』という派手な同人雑誌をやっていた。私は、その『編集後記』を見て、当時、行き場をなくしていた私は、《一縷の望み》をかけて岳真也の事務所を訪ねたのであった。私は、その種の記憶力が弱いので、その日が、何年何月の何日だったかを正確に記すことができない。確か『 神田川』がヒットし、ていた頃だった。もう大学院修士課程も修了していたから、24、5歳だったろうと思う。その日、岳真也さんは、昼間からマージャンをやっていた。マージャンの相手が誰と誰か、世間知らずの私は、まったく分からなかったが、今から思い出してみると、「 萩原朔美 」や「鈴木いづみ 」だったような気がする。萩原朔美萩原朔太郎の孫で、当時、有名だったミサブカルチャー雑誌の編集長だった。鈴木いづみは「 文学界 」新人賞を受賞したか、佳作入選した
まだ二十歳前後の新人作家だった。おそらく、『蒼い共和国』という雑誌の巻頭を飾る座談会の後だったのかもしれない。岳真也は、《ちょっと待ってくれ 、マージャンが終わったら飲みにいいこう》と言って 、またマージャンを始めた。私は、隣の部屋で待っていた。《マージャン》といい、《飲みに行こう》という台詞といい、私には、馴染みのない言葉だった。しかし、当時の私は、このままではダメだと思い、今までの生活や生き方を変えなければいけないと思っていたので、岳真也の生活スタイルに違和感は感じなかった。私に欠けているのは、この《社会性 》と《 社交性 》だと分かっていたので、この日、私は、岳真也の図太い社会性を信頼して、黙ってついて行くことを決断した。神楽坂の少し窪んだ場所にある居酒屋で、はじめて岳真也さんと話した。文学にしろ哲学にしろ、思想にしろ、《純粋性》は必要不可欠だが、《 純粋性 》だけでは無力だ。岳真也はマージャンも競馬も、酒もタバコもやる、そして女も。もちろ小説を書くことも。そういう岳真也を、私は、尊敬している。私と岳真也の唯一の共通点は、《文学》を生きる糧にしているところかもしれない。後期高齢者になった今でも、岳真也は精力的に小説を書き続けている。しかも売れそうもない純文学小説である。私は、岳真也と交流することによって、多くのものを学んだし、多くものを得た。私が、岳真也から学んだ最大のものは、力強く生きて行く《社会性》というか《共同性》とでもいうべきものだった。人は孤独では生きられない 、ということかもしれない。私は、その頃まで、そういうものを軽蔑すていし、拒絶していた。
しかし、もっとも大事なものは《 文学への情熱 》だったというべきだう。後期高齢者になった今でも、岳真也は精力的に小説を書き続けている。しかも売れそうもない純文学小説である。岳真也なら、《文学 》にこだわらなければ、もっと楽な、もっと裕福な、豪華な生活ができただろう、と思うが、岳真也は、敢えてそうしなかった。岳真也には岳真也だけの内的秘密があるのかもしれない。

私の処女作『小林秀雄ベルグソン』は、岳真也が紹介してくれた出版社から出した。
実は、私が慶應の文学部に進学した頃、慶應文学部の全盛時代だった。フランス文学の白井浩司や佐藤朔を初め、哲学の沢田允茂や松本正夫、ドイツ文学の池田浩士。しかも彼らは、 慶応の生え抜きだった。東大卒のおちこぼれではなかった。
私が大学に入学したころサルトルが来日し、三田で講演した。慶應義塾サルトル全集の出版で有名だった「 人文書院 」が、招待したということだった。
一方で、「 三田文学 」が、遠藤周作編集長のもとで復刊された。期待していたが、「学生に告ぐ」とかいう広告を見て失望した。六本木か何処かの喫茶店で、最初の集会を開くとあったからだ。六本木で文学。馬鹿かと思った。その時、岳真也は六本木へ行ったのかもしれない。岳真也は『 飛び魚』とい小説を、「 三田文学 」に発表しているからだ。私は、その頃の「三田文学 」を無視して、もっぱら哲学研究に熱中していた。岳真也もまた、処女作を学生時代に発表したとはいえ、その後、順風満帆に行かなかったようだ。その後、同人雑誌を出しながら、文学活動をつづけていたらしい。