山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) 070-9033-1268。 yama31517@yahoo.co.jp

■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。 珍しく、ある文芸雑誌から20枚程度の原稿を依頼されたので、今、私は、文学や文芸雑誌というものに、昔ほど、関心や興味があるわけではないが、そうかと言って、まったくないわけでもないので、思いつくままに、文学や文芸雑誌に関する「個人的な感想」を書いてみることにする。「ある文芸雑誌」と言っても、いわゆる大手出版社の出している「文学界」や「新潮」などのような有名な文芸雑誌ではない。また「早稲田文学」や「三田文学」




■商業誌としての文芸雑誌は滅びよ。全ての文芸雑誌が滅びた後に、文学は蘇るはずだ。ーー文芸雑誌撲滅論。


珍しく、ある文芸雑誌から20枚程度の原稿を依頼されたので、今、私は、文学や文芸雑誌というものに、昔ほど、関心や興味があるわけではないが、そうかと言って、まったくないわけでもないので、思いつくままに、文学や文芸雑誌に関する「個人的な感想」を書いてみることにする。「ある文芸雑誌」と言っても、いわゆる大手出版社の出している「文学界」や「新潮」などのような有名な文芸雑誌ではない。また「早稲田文学」や「三田文学」のような大学をバックとした伝統ある文芸雑誌でもない。『文芸思潮 』という極めてマイナーな文芸雑誌である。マイナーな文芸雑誌ではあるが、私は、大手出版社の出す文芸雑誌に関心がないのと反比例して、逆にそのマイナーな文芸雑誌『文芸思潮 』に興味を持っている。そこには 、商業誌的な文芸雑誌にはないものがある。文学の原点、文学の素心、文学の神髄・・・とでも言うべきものが、そこには、確実にあるからだ。
かつて 、「同人誌」というものが盛んであった。私が、文学や小説に関心を持つようになった頃 、芥川賞を受賞し、話題になったのは、柴田翔の『 されどわれらが日々』という小説だった。その小説は、元々は、「象」という同人誌に発表されたものだった。また、東京の高校生( 藤沢成光)が学内の同人誌「しまぞう」に発表した『 羞恥に満ちた苦笑』という小説が、朝日新聞の「文芸時評」に取り上げられ、大きな話題になったのもその頃だった。その頃までは、文学や小説は、同人誌中心に機能していた。「文学界」の巻末には、「同人雑誌評」といコーナーがあった。私は、そこを、ひそかに愛読していた。澁澤龍彦や秋山駿、河野多恵子佐木隆三・・・などの名前を知ったのは、その「同人雑誌評」であった。

ところで、「ある文芸雑誌」は、全国の「同人誌」を特集し、同人誌を紹介している。というより、全国の同人誌を母体にして成り立っている文芸雑誌と言っていいかもしれない。商業誌としての大手出版社発行の文芸誌の力が増し、文学や小説の中心が、商業誌としての文芸雑誌に移ると同時に、あるいは文芸雑誌が主催する「文学新人賞」の役割が拡大するに連れて、文学や小説の世界も、商業化し、「売れあげ」重視の文学や小説へと変貌して行った。「売れない小説は小説ではない」(笑)とでも言うかのように、文学は「商業主義」にのみこまれていった。
文壇や文芸雑誌の界隈で、「売れた、売れた〜」と大騒ぎすることが、文学や小説の中心的話題となるようになったのも、その頃からである。村上春樹の登場は、その流れを決定的にした。村上春樹が「ノーベル賞候補」になったと、大騒ぎするのが、文芸雑誌編集者たちの毎年の恒例になったのも、その一例だろう。極端な場合は、村上春樹の新作は、出版される前に、大ベストセラー騒動がおこり、大ベストセラーへ爆進という珍喜劇までが起こる。噂では、村上春樹批判は、文壇や文芸雑誌の世界ではダブーとなり、村上春樹批判をする文芸評論家たちは、文壇や文芸雑誌から煙たがられ、排除され、追放されていった。私と同世代か、その前後の世代の文芸評論家達の多くは、村上春樹とその小説には批判的だった。そして当然のように 、彼らは、表舞台(文芸雑誌 )から消えていった。彼らに代わって、文芸雑誌に登場してきたのが 、東大教授や准教授を筆頭に、毒にも薬にもならない無能な大学教員やその予備軍であった。たとえば、内田樹加藤典洋野崎歓、沼野一男、野谷文昭〜。彼らは、文芸雑誌の編集者たちの「意向」を忖度して、恥も外聞もなく、「村上春樹絶賛」を繰り返した。もちろん、村上春樹を評価するか、しないかは論者の自由である。しかし、彼らは、書くことに命を賭けているだろうか。東大法学部教授の丸山眞男が、大学が「本業」だとすれば 、雑誌や新聞などのメディアの仕事は「夜店」みたいなものだ言ったことがある。彼らの「文芸評論」に「夜店」の感覚はないだろうか。彼らが、文芸雑誌の「文芸評論」を独占すことによって、その結果、文学や小説から「批評」や「論争」が消えた。「批評」や「論争」のない制度化した文学はもはや文学ではない。文学や小説が地盤沈下して、社会的にも存在意義を喪失していくはずである。現在の文学の退廃と堕落は 、まさしく、文学が文学でなくなった結果の惨状そのものだろう。しかし、商業主義的文芸雑誌の編集者たちには、それが理解できるとは思えない。
私の文学的出発は、岳真也さんが主宰する同人雑誌『蒼い共和国 』だった。商業誌ではなかった。私は、同人雑誌から出発し、同人雑誌を中心的な舞台として文学的活動を展開してきた。たまに商業誌としての文芸雑誌に登場したこともあるが、私の表現の場所は、あくまでも同人雑誌だった。大手出版社の商業誌としての文芸雑誌から見れば、明らかに「シロウト」であり、「アマチュア」でしかなかっただろう。しかし、私は、ある時点から、大手出版社の商業誌としての文芸雑誌というものに魅力も価値も存在意義も感じなくなった。大手出版社の文芸雑誌からの「原稿依頼」に一喜一憂する同世代の作家や評論家たちの姿を見ていて、それは文学ではない、そこには文学はない、と思うようになった。特に「小説」ではなく 、「批評」を重視していた私のよう文芸評論家志望の者は、文芸雑誌に適当に利用され、適当に使い捨てにされ、適当な時期が来ると切り捨てられるのだ、と思うと、自分が虚しくなった。なんのために「文学者」を目指したのか。私は、江藤淳吉本隆明のような文芸評論家を目指していたので、やはり江藤淳吉本隆明が自分のマイナーな雑誌(「季刊芸術」「試行」 )を作り、そこに、地道に、書きたいものを書いていくという「自立メディア」の方向を、自分も目指すべきだと考えるようになっていった。商業文芸雑誌の奴隷になってはいけない、と。そのことを自覚した頃、私は、自分の力で雑誌を作り、そこに 、「書きたいものを書いていく」という吉本隆明的な方法を模索した結果、その頃、登場してきたネット空間とネット言論に活路を見出すことにした。ネット空間とネット言論は「私の同人誌」だった。
先日、岳真也さんから、「夕刊フジ」が届いた。そこに、岳真也さんが、写真入りで大きく取り上げられていた。岳真也さんの最新作『翔 』が、注目すべき小説作品として紹介されていた。来るべきものが来たな、と私は思った。お前らには出来ないだろう、と。岳真也さんの『翔 』という小説は、『三田文学 』や『早稲田文学 』に、分載された「マイナー文学」だ。もちろん 、「売り上げ」重視の文芸誌とは無縁な作品だ。商業誌としての文芸雑誌は、当然のように、 岳真也さんの最新作『 翔』を無視している。書評で取り上げたという話も聞かない。そこで、「夕刊フジ」が、一ページを使って、ドカーンと取り上げたというわけだ。

話は変わるが、二三年前( ? )、「LGBT」が話題になったことがある。参議院議員の杉田某女史が、『新潮45 』に「LGBTには生産性がない」と書き、左翼リベラル派からバッシングを受けた事件である。さらに文芸評論家の小川某がそれを擁護したことで事件は拡大し、『新潮45 』が廃刊に追い込まれた事件である。その騒動の時、新潮社社員( 編集者 )たちが、一斉に、「LGBT差別」反対ののろしをあげた。「 新潮社社員( 編集者 )たち 」は 、出版社勤務とはいえ、所詮は、平凡な「社畜」、つまりサラリーマンであり、「健全なる一般庶民」であるから当然だろう。しかし、私 が疑問に思ったのは、新潮社に関係する作家や評論家たちまでが 、一斉に、「LGBT差別」反対に唱和したことである。最近の作家や評論家は、「健全なる一般庶民」と同じ感覚や思想の持ち主なのか、と思ったものだ。高橋源一郎平野啓一郎島田雅彦〜等も、含まれていたので、私は驚いた。というより、彼らが中心になって、それを主導していたので、絶望的な気分になった。商業誌文芸雑誌に飼い殺しにされた挙句、言いたいことも言えず、サラリーマン編集者たちに唱和している文学者たち〜。これこそ、文学者の「自殺行為」だろう。おまけに、高橋源一郎は、「文芸評論家」を名乗る小川榮太郎に向かって、「お前は文芸雑誌(商業誌 )に、一度も原稿を書いたことはないだろう」「文芸評論家を名乗ることは恥ずかしい」・・・とか言うような発言をした。馬鹿か、と思ったものだ。そもそも商業主義的文芸雑誌が、「文学」と「非文学」の差異を決めるのではない。私は、小川榮太郎の政治的発言の多くに反対である。しかし、小川榮太郎の「LGBT」騒動での勇気ある発言には、激しく同意した。小川榮太郎こそ文学者であり 、文芸評論家に相応しい、と。
そもそも文学とは何か。文学者とは何か。