■今週のお題「行きたい国・行った国」いま、何故、家康なのか?(2)
私は、岳真也の『家康と信康』を、当初は 、まさかとは思ったが、《家康ブーム 》とか《 家康イヤー 》に便乗した読み物だろうと想像しながら読み始めた。第一ページ目の冒頭の一文を読んで、私の予想は外れたと思った。そこには、並の《家康物語》とは異なる風景が描かれていた。《夢 》の描写である。関ヶ原の戦場で、60歳の家康は、夢の中を彷徨っている。そこに登場するのは『 信康』と『 築山殿』である。とうの昔に亡くなっている。信康とは家康の長男であり、築山とは、家康の正室であり、信康を産んだ母である。二人とも、この世の人ではない。関ヶ原の合戦という天下分け目の戦場に、何故、信康とと築山が、夢の中で登場するのか。岳真也は、ここにこだわる。ここに、岳真也の《文学への情熱 》がある。正確に言うと《純文学への情熱 》だ。大衆迎合の分かりやすいメロドラマへの批判としての純文学精神である。純文学などという言葉が、近頃、流行らない古くさいことばらしいことは分かっているが、やはり岳真也の小説には、この古くさい言葉が、ふさわしい。印象的な描写がある。もちろん夢の中の描写である。
《 家康は武者の顔を見上げた。色白で、ふくやかな顔をした女の顔だった。
「築山? 」
家康の最初にして最後の正室・築山殿に間違いなかった。信康の生母である。これもまた、すでにして、この世の者ではない。信康と相前後して亡くなっている。
「……お久しゅうございます 」
柔らかく透いた築山の声が、聞こえた。家康は腰を上げる。もはや紛れもない。幻覚だ。》
家康の妻・築山が夢の中へ現れたのである。築山は、今川一族の出で、、f
つまり、この『 家康と信康』という物語は、信康という、家康が信長の意向に押し切られて切腹を命じざるをえなかった長男の死と、その母にあたる築山の死とに、焦点を絞りこんで、そこを徹底的に深堀りした小説である。家康の天下取りという大きな物語を期待する向きには、物足りないであろう。つまり、読者には《 期待の地平》というものがある。家康といえば、その天下取りの物語を知らないものはない。それでも、新しい家康物語を読んだり、見たりするのは、何故か。それは、半ば、自分の《期待の地平 》の物語を確認するためであり、半ば、その《 期待の地平 》を裏切り、それを超える物語を期待するからであろう。しかし、多くの読者は、その《期待の地平 》を離れるきとはない。