山崎行太郎公式ブログ『 毒蛇山荘日記(続)』

哲学者=文芸評論家=山崎行太郎(yamazakikoutarou)の公式ブログです。山崎行太郎 ●哲学者、文藝評論家。●慶應義塾大学哲学科卒、同大学院修了。●東工大、埼玉大学教員を経て現職。●「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認めらlれ、文壇や論壇へ進出。●著書『 小林秀雄とベルグソン』『 小説三島由紀夫事件』『 保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』・・・●(緊急連絡) yamazakikoutarou4669@gmail.com

作家・岳真也さんの最新作『 翔』について。

作家・岳真也さんの最新作『 翔』について。

私は、小さい時から、友人というものをもったことがない。少なくとも、私が、対自的に自覚している限り、友人らしい友人は、一人もいなかった。
私は、特に、高校、大学時代は、極端に内向的、自閉的な生活を送っていたので、友人らしい友人がいなかったことはいうまでもない。その頃は、友人がいなかった、というよりは、友人や仲間・・・というものを拒絶していた。人間関係を拒絶していた。私は、一人になりたかった。部屋に閉じこもって、本ばかり読んでいた。いや、実は、それが普通なのかもしれない。人間に友人がいるものだ、というのは幻想なのかもしれない。人間は友人など必要としない。人間は、本質的に孤独な存在なのかもしれない。孤独では生きていけないと考えたからこそ、人間は、友人を作り、群れを作り、家族、社会 、国家・・・を作るのかもしれない。友人も社会も、「孤独からの逃走」でしかない。・・・私は、そう考えていた。
そういう私に、岳真也(がく・しんや)という友人が、しかも「生涯の友」とも言うべき友人が出来たのだから不思議である。「岳真也という友人」は 、慶應義塾大学時代の同級生だった。ということになっている。しかし、学生時代には、ほぼ同じ頃 、同じキャンパスで過ごしたはずなのに 、まったく面識がない。実は、卒業後に知り合ったので、学友ということはない。それも、厳密に言うと、私の方から、直接、会いに行ったのである。新宿にある新潮社の近くの小さなマンションだった。私は、その頃、岳真也さんが主宰していた「蒼い共和国」という同人雑誌に、原稿を売り込みに行ったのであった。岳真也さんは 、既に「三田文学」に小説を発表し 、テレビにもレギュラー出演している新鋭作家だった。その日、岳真也さんは、友人たちとマージャンをしていた。前夜からの「徹夜マージャン」のようだった。マージャン仲間の中に、「萩原朔美」さんもいたような気がする。私は、マージャンというものをしたことがない。私は、隣室で、マージャンが終わるのを待っていた。マージャンが終わると、皆、引き上げていった。神楽坂を登って、下りになるあたりの貧乏居酒屋に呑みに行った。私ともっとも対極にある人物が、岳真也さんだった。社交的で、行動的、物怖じしない対話力 ・・・。少なくとも、私にはそう見えた。しかも仕事熱心で仕事が早い 、締め切り厳守・・・。22、3歳の頃の話だ。あれから、何年、経ったのだろう。
さて、本題にはいる。作家・岳真也さんの最新作は、次男(「匠」君)の「死」を描く「私小説」である。実は、その「次男」には、私も一度、会ったことがある。「浦和競馬」の帰りに、私の家に、男の子二人を連れて遊びに来たことがあった。まだ、小学校入学前後のことだったと思う。
その次男が、中学時代に友人関係のもつれから、「イジメ」にあい、登校拒否になり、自室に閉じこもるようになっていく。私は、「ああ、これは、『 私』のことじゃないか」と思いつつ読んでいった。しかし、もちろん、私とは違う。私は、「引きこもり」や「自閉的生活」を自主的 に選択していた。私は、イジメられたこともなければ、病気になったこともない。薬を飲んだこともない。
本編の主人公、岳真也さんの次男・匠くんは、途中から精神を病み、精神病院に出入りしながら、もがき苦しみつつ、必死に生きようとしている。しかし、出口は見つからない。やがて、30歳を過ぎた頃、病院で、不信な死に方をする。親兄弟など、身内だけの家族葬で、荼毘に伏し・・・。
話は変わるが、岳真也さんは、慶應義塾大学の経済学部の出身である。しかも、高校は、東京の有名な進学校駒場東邦高校である。東大受験に失敗し、慶應の経済学部に進学する。秀才によくある話だ。私は、そういう岳真也さんが、「作家である」ことに拘り続けていることが、よく分からなかった。超エリートというわけではないかもしれないが、その気になれば、平凡だが、順風満帆の「エリート生活」はいつでも可能だったはずである。しかし、彼は、文学にこだわり、貧乏や苦労を厭わずに、作家であり続けようとし、70歳を過ぎた現在まで、作家であり続けている。何故、この人は、「作家」というものになり、とても売れそうもない小説を、書きき続けるのか。いや、何故、書きつづけることが出来たのか。
私は、この最新作『翔 』を読みながら、その理由が、少しづつ分かりかけてきたような気がする。岳真也さんは、芥川賞直木賞も、その他の文学賞も受賞していない。しかし、その後も、しぶとく書き続けてきた。普通なら、とっくに諦めて、別の道を選びそうなものなのに・・・。
岳真也こそ「本質的な作家」である、と私は思う。「売れる小説」を書き続けることは 容易かもしれない。が 、「売れない小説」を書き続けることは 容易ではない。特殊な 、天賦の才能が必要である。作家・岳真也には、そういう天賦の才能がある。売れようと売れまいと、書き続けなければならない「何か」を持っているのだろう。岳真也が「本質的な作家」だという意味はそういうことである。
(続く)



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